とっとりで暮らす

東京から鳥取へ。佐治町という小さな町に引っ越した人のブログです。

思い出す

震災があった年の6月5日に、新宿の紀伊国屋ホールで行われたシンポジウムに行ったことを思い出した。
ちょうど24歳になった日だ。

その日のパネリストは柄谷行人、大澤真幸、山口二郎、いとうせいこうという顔ぶれ。
当時の僕には話の半分以上は理解出来なかったけれど、ひとりであらゆる所に出向いて、ふらふらとしていた僕には刺激的な内容だった。少し賢くなった気にもなれた。

あの頃は一人暮らしにも慣れて来て、お金はなかったけれど興味を持った展示や講演、シンポジウムなんかにたくさん行った。ひたすら街を歩いたし、コインパーキングの精算機の写真をたくさん撮り溜めたり、どうでも良い物をたくさん探したりしていた。

整理券を手に入れるために朝から並んでいたところ、僕の前に並んでいたおじさんと話が弾み、茶をして連絡先を交換した。

文学や哲学、思想、写真、嗜好品などにとても詳しく、僕が思う” 格好良い大人 ”だった。

精算機の写真を撮っていることを話しても、馬鹿にもせずに興味を持って聞いてくれた。
むしろ、ガスタンクの写真を撮っている写真家を教えてくれた。
当時吸っていたショートピースが、" 格好良い煙草 "であることも分かってくれた。
物腰は柔らかいけれど、博識で芯がある人だった。
歳を重ねても、こんなふうに話が出来る大人になりたいと思った。

彼は(たぶん)50代半ばで子どもはおらず奥さんと二人暮らし。病気で身体を悪くした為、勤めていた出版社を退職して余生を楽しんでいるという。
話を聞くと、実家が石巻にあり家が流されてしまった。母親も亡くしてしまった。
東京の家に置き切れない大切な蔵書や、趣味で撮ったたくさんの写真も全て津波によって流されてしまった。
そんな話を聞いたり、実際に被災地に出向いて撮って来た写真を、自分で現像したものを見せてくれたりした。

彼はその度に悲しい顔をしていた。どうにもならない感情を誰かに話したかったのかもしれない。
けれども、その話を聞いて僕はどういう言葉を返せば良いのか分からなかった。悲しいことは確かだが、どんな言葉も出なかった。

毎回、そんな気持ちになってしまい、しばらく連絡が途絶えた。メールは使っておらず、電話でのみ連絡を取っていたので、こちらからは連絡が出来なかった。
半年振り位に電話が掛かって来て、お母様のことがあったり、自身も入院をしていたりという話を聞いた。

その後、下高井戸の珈琲屋で演奏をした際に一度だけ会い、自然と連絡は途絶えて行った。

それから5年が経って鳥取に来た。
思い出したかの様に、本棚にあった”坂口謹一郎著「日本の酒」「世界の酒」”を引っ張り出してみた。酒の話をしている時に、彼が薦めていた書籍だ。それで今日、こんな文章を書いている。

写真美術館にジョセフ・クーデルカの写真展に連れて行ってもらったり、渋谷の老舗のカレー屋さんに連れて行ってもらったり。
思い返してみれば、実際はそんな回数会っていないのだけれども、何度も会っていた様な気になるくらいの思い出になっている。

もし、また会えるのであればたくさんのことを教えて貰いたい。
今やSNSで検索をすれば、もしかしたら連絡を取れるのかもしれないけれど、そういうことじゃないんだよなぁ。